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宮古島の夏は早いです。

寒さのピークは2月。。。

5月には衣替えで、制服も変わります。

夏の制服は軽装でワイシャツに棒タイ
夏の制服スカートとワイシャツを揃えなくはいけません。

しかし、宮古島の夏の暑さでは、1着2着では追いつきません。
ましてや、年頃の女の子ですから汗臭いシャツを着るなんて
出来ません。。。

でも、小遣いもなく、わずかな奨学金と母からの仕送りで
生活費を切り詰めていた私は夏の制服を買う余裕等ありません。

そこで、家庭科の時間を利用して、ワイシャツを縫うことにしました。
洋裁の経験等ありませんので、しっかりと先生に教わって完成!

そして、友達に教えてもらいスカートも手作りで縫うことにしました。

なぜ?先生に教わらなかったというと。。。

学校の規則で、スカートのひだの数と膝丈が決まっていたので
チョッと規則違反ではありましたが、ひだの数を増やして膝丈を
長くして作りたかったからです。

今の学生はミニですが、私の時代はロング丈が流行っていました。

洋裁もコツを憶えると結構楽しく、オバアが使っていた足踏みミシンで
普段着のスカート等を縫って、お洒落を楽しむようになりました。

参考書なんて高いものは買うことができないので、学校の図書室で
勉強したり、友達の家で勉強したりと節約、節約でした

なんとか学校にもなれ、学校での唯一の楽しみは

「音楽同好会」

人数が少人数のため、部活動としてなりたっていないため
部費もなく、同好会としての活動でした。

当時は、フォークソングの最盛期!

かぐや姫、チェリッシュ、吉田拓郎、森山良子、イルカetc。。。

多くのアーティストが活躍していた時代でしたので
ギターを弾きながら歌を歌うことは憧れでした。

先輩達のギターを聞きながら、必死にコードを覚えて練習したものです。

中学時代にクラッシックギターを担任の先生に教えてもらっていたので
クラッシックギターは持っていたのですが、フォークギターがない。。。

どうしてもフォークギターが欲しくてたまりません。

でも、ギターを買う余裕等ありません。

夏休みを利用して、本島へ行き
同級生のお兄さんにお願いしてアルバイトをさせてもらいました。

そして、アルバイトのお金とコツコツとためた貯金で念願の
フォークギターを購入することができました。

嬉しくて、嬉しくて、毎日夜になるとギターの練習をするのが日課となり
台所仕事をしながら、洗濯をしながら、どこにいても
大きな声で歌を歌っていました。

テレビもNHKしか映らず、ラジオも電波が悪く時折台湾語の放送が
混ざって聞こえてくるほど、何の娯楽もない田舎です。
歌を歌っている時が一番楽しかったかもしれません。

そんな夏のお盆の時でした。

お盆には叔母達も帰省して久しぶりに賑やかになります。

お盆の3日間、小学校のグランドにやぐらが建てられ
盆踊り、のど自慢大会が開催されます。

私もギター片手に、のど自慢に参加してみました。

森山良子の「風が運ぶもの」♪

女の子がギターを持って歌を歌うことが珍しかったのか
見事優勝!

楽しい思い出の一つです。













私が住む宮古島の狩俣部落は小さな部落です。

道路標識.jpg

あまり歴史の事は知らないのですが、
狩俣部落の始まりというコラムが掲載されていましたので紹介します。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146896-storytopic-64.html


偶然にもこのコラムを書いたのは、幼なじみの同級生です。

古くから、色々な祭事がありました。
ましてや、オジイの家は「新里」の本家
門中「むんちゅう」だけでも30件以上もあるとか。。。

古くから引き継がれている旧16日祭
他にもナツブーイやお盆等毎月のように何かしら祭事がありました。
その度に、仏壇にお供えする料理を作ります。
又、漁師をしている叔父の安全と大漁祈願等、全ての事を親戚の叔母さんに
教わりながら、本家の役割としてやらないといけませんでした。

沖縄だけの習慣で毎月の「模合い」
又、むんちゅう墓の建替えとかで、毎月親戚の人達が集まっていました。

不思議とこの「模合い」の日がいつもテスト期間中

当然試験勉強なんて出来ません。

酒のつまみの用意しなくてはいけません。
そして容赦なく

「ヒトミ? 水がないよ?」
「酒が足りないよ?」
「料理が足りないよ?」


酔っ払いの叔父さん達の私を呼ぶ声

イライラが募るばかりでした。

酔っ払いの叔父さん達がようやく帰り、片づけが終わる頃は11時を過ぎていて
眠さをこらえて、試験勉強をすることも度々ありました。

一番キツイな?と思ったのは、年頃の私に、オジイや叔父さんと話が合うわけがありません。
学校の話や友達の話が出来るわけでもありません。
だんだんと寂しさがつのってきました。

又、家の仕事があるので、遅くまでの部活動もできず

時間の自由がきく、音楽同好会のサークルに参加していました。

そして。。。一番の問題は学費です。
年老いたオジイに学費を出してもらうことなんてできません。

それでなくても、生活費はオジイの大工の収入で支えていたので
これ以上の負担をかける分けにはいきません。

私の貧乏節約生活のスタートです。

高校生活がスタートしました。dash
と同時に全ての家事もやらなくてはいけません。

朝は、大工仕事をしているオジイの朝食と弁当作りから始まります。
大工の仕事は朝が早いので夜のうちに準備をして、朝は手早く仕上げて
オジイを送り出さなければいけませんでした。

オジイは肉が大好きですが、歯が殆どないため食べやすいように
肉をたたいて、夜のうちに特性のタレに漬け込んでおきます。pig
そうすると歯茎でも噛めるほどやわらかくなるので、
オジイにはとても喜ばれました。happy01

夕方、学校から帰ると夕食の支度をしながら洗濯等など。。。

肉嫌いの叔父とオジイのための食事を作らなくてはいけませんが
レパートリーが少ないので料理の本を見ながら、あれこれと奮闘していました。

そんなある日叔父から

お前はオジイのためにばっかり食事を作っているじゃないかpout

それに、オジイには弁当作っても叔父さんには作ってくれないし

叔父さんはどうでもいいのか!
pout

と不満の言葉を言われ

慣れない台所仕事と学校生活で毎日奮闘しながらも頑張っているつもりだったので

叔父の言葉に思わずカッとなりimpact

私は叔父さんの嫁さんじゃないよ!annoy

そんなこと言うんだったら、何でも好き嫌い言わないで食べてよ!

肉を食べないから、何を作ってあげたら良いのか分からないさ?
pout

そんな事を言うんだったら自分で作ればいいさ!
annoy

叔父に言い返してしまいました。

叔父も私の剣幕にあきれてしまい、翌日から部落にある店で弁当を
買って漁に出て行ったようでした。

日曜日は、朝から家の掃除と洗濯
オジイの作業着は洗濯機で洗えないので、風呂場に広げてタワシで
洗わなくてはいけません。denim

明治生まれのオジイは骨太で体格もよかったので、作業着も大きくて
洗うだけでも大変なのに最後手で絞り終わった頃は、手がブルブルと
震えてグッタリします。catface

午前中の家事をすませるとお昼の準備です。
オジイは日曜日に、畑仕事に出ているのでお昼には家に戻ってきて
食事をとるからです。noodle
大工仕事をしながら、サトウキビも作っていました。
昼食をとった後、1時間程仮眠をとって又夕方まで畑仕事です。sleepy

オジイはとても働き者でいつも何かをしています。

大工道具も一つ一つを大事にしていて、毎日綺麗に磨き、
家のハサミや包丁等も刃こぼれひとつなくピカピカに磨いていました。shine

そんなオジイの楽しみは。。。

仕事を終えて、夕食を食べながら泡盛を飲むことですbottle
たまに、夕食まで待てなくてテレビを見ながら飲むこともありますが
オジイにとっての「命薬」方言でヌチグスイでした。

又、サツマイモも大好きで、365日食べても飽きないというほどでしたので
オジイの朝食はサツマイモと味噌汁heart04

オジイは私が作った食事に対して不平不満を言うこともなく
出された食事は残さず全部食べ、「美味しかったよ」と言った後に

「今日の味付けはオジイにはチョッと辛かった」
優しく味の評価をしてくれました。

そんなオジイに喜んでもらおうと思い、私も料理の本とニラメッコしながら
色々と作ってレパートリーを増やしていくようになりました。

学校へ行きながら家事をやるだけでも大変なのに

更に予想以上に、私にはやらなくてはいけない事が沢山ありました。sweat01

こんなんで、高校生活続けられるの?crying











合格発表から、慌しく宮古島へ帰った私には
多くの事が待ち受けていました。

オバアが亡くなってしばらくしてから、
石垣島から叔父が戻ってきていて、オジイと2人で生活していました。

叔父は私が小学校の時、事故で右手首をなくしてしまったのですが
負けず嫌いの強い性格で、船舶の免許を取り宮古島で猟師として
スタートさせていました。

又叔父は若い時、青年開発隊?にもいたと言う事で、とても知識が深く
右手のハンディは物ともせずに、漁の仕掛け作りはもちろん、
料理等なんでもこなしていました。

でも。。。叔父は頑固で、若い時のトラウマで肉類を一切口にしません。
友達に騙されて犬の肉を食べさせられたそうですdog bearing

オジイは大の肉好きpig

度々食事の事でぶつかっていたようです。annoy

当然、叔父は私が帰って来た事を喜び、
食事の支度を全面的にやらなくてはいけません。

食事だけではなく、家事全般が全て私の仕事となります。sweat01

今までオバア任せに生活してきて、3年も療護園生活です
まともな料理など作れるわけがありません。

でも、そんな事を言っている暇もなく叔父に教えてもらいながら
肉入りのオジイ用のオカズと肉なしの叔父用のオカズと
二種類の食事を作らなくてはいけませんでした。

魚は、叔父が漁から獲ってきた魚やイカ・タコ等があるので
不自由はありませんでしたが、魚を捌いた事もない私には
生臭くて、その作業がとても嫌でした。

家事全部をやらなくてはいけないというプレッシャーもありますが、
それよりも入学の手続きや制服の準備等、分からないことばかりで
何をどうして良いのか戸惑う私に幸いにも、親戚のお姉さんが同じ高校に通っていて、
いろいろと教えてもらう事ができ、制服のお下がりをももらう事が出来ました。

でも、一着だけは、新品で仕立てる事にしました。new

東京の母や応援してくれた叔母へ、
新品の制服姿で記念写真を送りたかったからです

入学記念写真.jpg

高校までの通学は、部落から市内までバス通学です。bus
宮古島は、バスの市内線がありません。

平良から狩俣まで、路線バスの「八千代バス」を利用します。

平良市内から狩俣部落まで約40分

そして、路線バスの終点から徒歩で高校まで、
私の足では30分以上かかります。

まだ、リハビリも完全でなかった私は右足は鉛の入った膝までの金具付き義足を
履く事で歩行していたので、長く歩けなかったのです。
ましてや、教科書の入った重いカバンを持って歩くのは、とても無理でした。shoe

でも、なんとかしなくてはいけません。

オジイもそんな私を心配して、毎日市内まで仕事に向かう親戚の叔父さんに
学校への送り迎えをお願いしていました。

オバアの本家の叔父さんで、子供の頃から知っている叔父さんでした。

皆、私が生れて来た時から私を知っている人達ばかりなので
安心して頼る事ができました。

とりあえず、とまどいながらも周りの人達の助けを受けて
新しい生活を少しずつスタートさせる事ができました。





試験を終えて療護園に戻り、試験問題を再度確認してみました。

英語・国語はクリアできても問題は数学ですが、答え合わせをしてみると
以外に出来ていました。

しかし。。。

宮古高校の倍率からするとどうなんでしょう?

果たして、合格ラインに入っているか。。。。



合格発表の日、外泊許可をもらって叔母の家にいました。

朝から、時計を見ながら気を紛らすようにテレビに食い入っていました。

そんな私に叔母は

宮古に電話して結果を聞いたら!

大丈夫だよ! きっと合格しているよ!


と催促をするものの、私はどうしても電話の前に立つことが出来ません。

時間だけが過ぎていきます。。。。

ダメかもしれないと、諦めかけたところに電話が鳴り響きました。

叔母が、「電話を取りなさい」と声をかけても恐くて出れません。

仕方なしに叔母が電話に出ました。

先生からです。。。。

そして、私に向かって叔母の声が明るく笑いながら

合格したってよー

おめでとう、良かったねー 

だから大丈夫だって言ったでしょう!


それからは、あちこちに合格を知らせる電話をかけまくりました。

オジイも心配で合格発表を見に行ったようでした。

やっと、家に帰れる。。。

そう思いながらも、
これから始まる高校生活

オバアのいない宮古での生活は不安でいっぱいでした。

そして、合格発表の後は慌しい日々が待ち受けていました。

卒業式、療護園の退園の準備等。。。

主治医の先生も私の検討をたたえながらも

手術したくなったら、いつでも戻って来いよー

なんて言うのです。

やだねー 絶対に戻りませんから

強気で言葉を返しながらも3年間過ごした療護園を離れることは
とても、寂しく感じました。

そして、卒業式を終えると、
お世話になった園長先生や主治医の先生、看護婦さん、調理の叔母ちゃん、
指導員の先生、訓練の先生や先輩後輩達に別れを告げ、思い出の療護園を
後にして宮古島へと帰ってきました。











明けましておめでとうございます。new

2010年がスタートして10日が過ぎました。
ブログの更新が少し遅くなってしまいましたが、
今年もウーマクオバーのブログ宜しくお願いします。happy01

今年で52歳になってしまうウーマクオバーですが
50年という歳月が今ではあっというまに過ぎ去ったような気がします。
あの時、こうしていれば人生変わったかも。。。
なんて思いながら、過去の記憶をたどって書いているこのブログ、
結構忘れてしまった事がありますが、自分自身の生きた記録として
綴ってみたいと思います。dog

さて、高校受験の話に戻りますが

いよいよ受験当日、不安な思いで宮古高校の門をくぐりました。
今まで頑張ってきた成果を精一杯出すだけです。

初日午前のテストが終了して、昼食時間になって驚いた事がありました。sign02

3年も宮古島を離れていて分からなかったのですが、宮古島の風習で
受験の日、家族揃ってお弁当を食べるという事です。

学校にはお弁当を抱えた受験生の家族が集まって、
校庭のあちらこちらでまるで遠足のようにお弁当を広げて食べていました。restaurant

そんな風習があるなんて知らなかった私は一人食堂へ。。。

すると、校門の前でオジイが私を待っていました。
大工をやっているオジィは私を心配して、昼食を一緒にとろうと
仕事場を抜け出して来てくれたのです。

とても嬉しくて一人ぼっちの寂しさも忘れ、オジィの優しさに感謝、
オジィと2人で学校近くの食堂で昼食をすませました。

オジィ ありがとう 頑張るからねと言い聞かせながら
後半のテストに望みました。

5教科のテストも国語・英語はバッチリ!
苦手としていた数学も思ったより回答できたような気がしました。

緊張の3日間も過ぎ、後は合格発表を待つのみです。

合格しなければ、後1年から2年は宮古島に帰ることはできません。

沖縄本島に戻る私を寂しそうに見送るオジィを残し、療護園に戻ってきました。










復帰前は、お正月を祝うのは旧正月でした。

でも、本土へ就職した人達が帰ってくるのは新暦の正月なので
賑やかに正月を迎えていました。

今では見ることもなくなってしまいましたが、殆どの家の門には門松と
日の丸の旗がなびいていました。

大晦日の夜には、オバアが手作りの餅を作り、正月料理を夜遅くまで作っていました。
又、部落内は1班から6班とグループ分けされていて、各班毎に大晦日に豚を潰して
それぞれ分け合います。
馬やヤギの時もあり、一年で一番贅沢な食事だったような気がします。

オジイは、山から竹を切ってきて門松を飾り付け、紅白歌合戦が始まると
テレビの前に釘付けです。
又、テレビのない家の近所の人達が集まって賑やかに年越しをします。

この時、新しい年を迎えるんだなーという実感がわいてきました。

我家は、部落でも「新里」の本家でした。
分家も30件以上あり、親戚も多く誰がどういうつながりなのか分かりません。

元旦の朝早く、夜が明けると同時に新年の挨拶にお客様が来ます。

座敷には正月の挨拶用のおとそとゆでた豚レバーの切り身が用意されており
本家の主、オジイからレバーに塩を乗せ、お客様は頂戴をした形で
そのレバーを受け取り口に入れ、次にオチョコの泡盛をオジイから受け取り頂きます

朝一番のお客様が帰った後に、家族が一人ずつオジイの前にひざまづいて
レバーと泡盛を頂きます。
これが、お正月の儀式でした。

この儀式のせいかな? お酒が強くなったのは。。。。(笑)

本家のお正月は忙しいです。

朝から次々と挨拶に来るお客様の対応に追われます。
料理やお酒の準備、後片付け。。。。

延々と夜まで続き、さすがのオジイも早い時間には酔って寝てしまっていました。

正月3日間は女の人は台所から離れられません。

小さい頃は、お年玉がもらえるのでお客様が来るのが楽しみでした。

お年玉を手に近所の駄菓子屋さんへ行き、くじ付きの駄菓子を買うのが
とても楽しみで、一日数回も行くのでオバアに叱られたことも。。。。

無駄遣いをしないようにと、叔父が鉄の貯金箱を作って無理やり貯金箱に
お金を入れさせられました。

旅からの人達が帰った後は、部落全体が静かになってしまいますが
再び旧正月で帰ってくる人達で部落は賑わいます。

旧正月になると私は晴れ着を着せてもらい、あちこちの親戚の家に
挨拶へ行きます。
もちろん目的はお年玉。。。

一年で一番金持ちになれる時ですね(笑)

今は、本家もオジイの代から叔父が受継ぎ、正月の儀式もなくなりました。

子供の頃のあのウキウキしたお正月が懐かしいです。


受験勉強も順調に進んでいる中、中学最後の運動会がありました。

療護園では小中合同で運動会が行われます。

私と明美さんは、中学最後の運動会を自分達でも作っていきたいと考え
フォークダンスの振り付けを考えることにしました。

毎年、フォークダンスは車椅子と歩行できる人とで別れていました

それではせっかくのフォークダンスもつまらない
全員が参加できるフォークダンスでなくては思い出にならない

そこで考えたのは、車椅子と歩行困難な人達は円を描いて座ってもらい
歩行できる人達が移動して踊るという方法で、新しいフォークダンスを
考えました。

フォークダンス.jpg

フォークダンスだけでなく、いろいろと競技を考えて出来た運動会は
大成功でした。


中3運動会.jpg

そして。。。

オバアが亡くなって1年がたったお正月
3年ぶりに宮古に帰ったのですが、とても淋しくて
この時の記憶は全くありません。

ただ、オジイの妹メガンサオバーが私の手を握りしめ

アガイー ツンダラーサー 

宮古の方言で、「とても可哀想」と言いながら泣いて
いたことだけ憶えています。

その時、「そうなんだ? やっぱりオバアはいないんだ」と
実感しました。

オジイの淋しそうな姿を見ると、なにがなんでも高校合格して
宮古に帰ろうと強く願いました。

しかし、お正月を過ぎると急に冷え込み
冬の図書室は寒く、受験を目前にして風邪でダウンしてしまいまいた

何日も高熱が続き、勉強することもできなくて

受験に失敗したらどうしよう

こんな時に熱なんかだして、バカヤロウと不甲斐無い自分に涙しました。

そして、高校受験の日が近づき

宮古島へは、担任の正俊先生が引率してくれる事になり

不安いっぱいで、試験会場となる宮古高校へ。。。。



図書室を夜間解放してもらってからは、夜の騒がしい病棟を離れ
静かな環境の中で、受験勉強に専念する事ができました。

しかし、私にはもう一つ大きな難関がありました。

それは、受験科目の中で一番苦手な教科が

「数学」

この苦手な科目をクリアしない事には、合格への道は遠い。。。。

英語と国語は得意な科目だったので、心配はしていなかったのですが

「数学、理科、社会」の3つは、苦手な科目でした。

理科、社会は何とかクリアできそうでしたが、数学は生理的にも
「嫌い?苦手?」意識が私の頭を回転させてくれません。

でも、このまま分からないままでいるわけにはいきません。

まずは、自分がどの辺からつまづいたのかを振り返って見る事にしました。

小学校の算数に戻り、一緒に療養している小学生から教科書を借りて基本から
勉強して見る事にしました。

そして、数学の先生にお願いして、放課後個人指導をしてもらう事にしました。

数学の先生「大城先生(男性)」は、少し口が悪いので、
いつも反抗してばかりいたのですが何かにつけて話しやすい先生でした。

先生も私の個人教授のお願いに
「おっ! 仁美もやっとやる気になったな!」と言って
快く引き受けてくださって、ケンカしながらも時間がある時は放課後
病棟まで来て指導して下さいました。

小学校の算数からスタートです。
先生は、そんな私に。。。。

「お前は、こんなところも分からないのか!」

と小ばかにしながら毒舌を言ったりしますが
そこは、気の強い私の事黙ってません。

「分かっていたら先生にお願いしません!」

即座に言い返します(なんて可愛くないこと。。。)

すると先生も

「そうだな!」


と答えて、2人の珍問答の勉強会が始まったのです。

そして今までチンプンカンプンで理解できなかった部分も
理解できるようになってきたのです。

でも、だからといって数学は好きになれませんでしたね。 先生も。。。(笑)





いよいよ中学最後の学年です。

私には主治医の先生との大きな約束があります。
思いを達成するには、なんとしても高校を合格しなくてはいけません。

本格的に受験勉強に取り組まなくてはいけません。

しかし、療護園での生活は静かな環境で勉強できる場所がありません。

小中学生や未就学児と大勢の子供達が集団生活をしているので
消灯までの時間は、とても騒がしい。。。

9時の消灯で部屋の電気を消してしまいます。

そして、消灯時間になると指導員の大城先生が、各部屋を見回りにきます。

先生のパタンパタンというスリッパの音が聞こえると、子供達はいっせいに
ベッドにもぐりこんで寝たふりをします。

私達受験生は、小さな子供達が寝静まってからが勉強時間です。
しかし、部屋の明かりを点けることは出来ません。
電気スタンドにタオルをかけて、更に灯りがもれないように毛布を頭からかぶって
同室の子供達が起きないように気を使いながら勉強していました。

しかし、そんな環境での勉強はストレスがたまり効率が悪くイライラするばかりです。

そこで、療護園内にある図書室を夜間開放してもらえるよう指導員の先生に
お願いすることに。。。

しかし、先生の返事はノーでした。

先生の返事に納得いかず、もう一度お願いをしようとするのですが話を聞こうとしてくれません。

そんな頑固な先生に私は徹底抗戦をしかけるべく、中学生全員に呼びかけ
指導員の大城先生にチャンと話を聞いてくれるよう指導員室の前に座り込みをする事に

先生も私達がずらりと部屋の前に座り込んでいる姿を
横目で見ながら指導員室へ入っていきました

大城先生は体も大きく、目つきが鋭く睨まれると
ビクッとしますが、こんな事でひるむわけにはいきません。

後輩達に頑張ろうねと声をかけて座り込み抗議を続けました。

看護婦さん達もそんな私達に「頑張れー」の声援を。。。

半日が過ぎ、部屋の前から動こうとしない私達に、ようやく指導員室の先生から
声がかかり、

話を聞くから代表2人だけ中に入りなさい

やった!

私と明美さんが代表で先生と話し会うことになりました。

話し合いの結果、夜間図書室の開放が認められました。
条件は、夜は中学生だけの利用と図書室での飲み食いは禁止

勉強以外の目的で使用してはいけない等の約束を交わし
別棟にある図書室で夜静かに勉強できる事になりました。

さすがの先生も私達中学生全員が座り込み抗議をしてくると
思わなかったでしょう!

リーダーとなって皆を引っ張ってきた私に。。。

まったくお前は。。。

あきれて言葉も出なかったようでした(笑)

でも、夜間の図書室開放は後輩達にも喜んでもらえたし
私としても高校合格への道が開けたように思えて、ますます
頑張る気持ちになりました。



プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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