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現在の事や中学時代に戻ったりで、チョッと忙しいブログですが
高校時代に戻りたいと思います。

学校を辞めたいと思った事が嘘のように毎日忙しく、
楽しく過ぎていき、なんとか3年に進級。。。

3年にあがると卒業後の進路を決めるべく、
先生との面談や相談がスタートしました。

いろいろと夢や希望はありましたが、
現実は簡単なものではありませんでした。

進学の夢を捨てた私は少しでもオジイを助けるために働きたいと考えていました。

しかし、小さな島で障害を持った私が働けるような場所はありません。

普通高校で何の資格も技術もあるわけでもなく、何をどう考えてよいのか分かりませんでした。

そんな時、東京に住む母から卒業したら東京に来るようにと話がありました。

家の手伝いをしながら、専門学校に通わせてあげると。。。

でも、その言葉に私は素直に応じることができませんでした。

なぜなら、物心ついた時からオジイ・オバアに育てられて来た私です。

高校を卒業して、一人前になってオジイと離れ母の元へ行く?

そんな白状な事ができるもんですか!

オジイの胸の内を考えると苦しくて涙が出てきます。

母は再婚して、すでに今の父との間に二人の子供がいます。
私は訳あってオジイとオバアの子供として育てられました。

戸籍上では母と姉妹です。

叔母達も私が東京へ行くことを快く思っていませんでした。

それは、長く離れて生活してきた私が新しい家庭生活に悩むであろうと。。。

その話を聞いてもオジイは黙っているだけでした。

きっと私と離れる事が寂しかったと思います。

悩みながらも進路相談室に通い、自分の居場所を探していました。

そして思った事は、働きながら何か技術を身につけよう

そうすれば次のステップに行けるだろうと

障害者でも受け入れてくれる企業があるか、
進路相談の先生にその事を話しました。

そして県外の企業で障害者でも受け入れてくれる所があると。。。

悩みました

オジイと離れる事になるからです。

でも、何もできないまま宮古島に残っているよりは一歩踏み出さなくてはいけません。

進路室にあった求人の資料を調べ、やっと希望の企業を見つけました。

しかし、希望を出したとしても企業の面接に受からなければ就職はできませんので
先生に手続きをお願いして、面接が終わり結果が出るまで誰にも話しませんでした。

もちろんオジイにも。。。









涙くんさよならnote さようなら涙くんnotes

また会う日までーnote

この歌を聴くと療護園時代の友達を思い出します。

ヨシエさん

中学2年の途中から療護園に入園してきました。
病気のため学校に通えなかったため、1学年留年したそうです。

活発で行動派のヨシエさんは、ズバズバと何でも言う正確で
時々私と衝突することもありました。
でも、どこか似ていたのでしょう。
すぐに仲直りして、さっきの喧嘩は何?って感じでした。

彼女はベッドクラスだったので教室組みの私と一緒に授業を
受けることはなかったのですが、見た感じ何処も悪いように見えなかったので
なぜ彼女がベッドクラスなのか不思議に思いました。

彼女も自分の病気の事を語らないので私もあえて聞くことはありませんでした。

しかし、楽しみにしていた修学旅行にドクターストップで行けなくなった時は
2人してとてもガッカリ、バスを見送る彼女の笑顔を思い出すと哀しくなることがあります。weep

それは。。。

ヨシエさんは、16歳という若さで帰らぬ人となってしまったからです。

訃報を聞いたのは、療護園を退院して1年後でした。

私達が卒業して療護園を出た後も彼女は治療のため療護園に残っていました。

その後、手術を受けたそうですが、手術の経過が悪く、
そのまま回復することなく亡くなってしまったと。。。

「涙くんさよなら」は、彼女が大好きだった歌でした。

彼女はこの歌を歌うことで自分自身を勇気付けていたのでしょう。weep

私達と同じように高校進学も夢見ていたでしょう。

だから16歳で去ってしまった、彼女の分まで頑張らなくてはいけません。

高校時代、辛く哀しい時は空に向かって「涙くんさよなら」を大声で歌い、
彼女を思い出し、自分自身を励ましていたのかもしれません。


作詞:浜口庫之助 作曲:浜口庫之助


涙くんさよなら さよなら涙くん

また逢う日まで


君は僕の友達だ



この世は悲しいことだらけ

君なしではとても

生きて行けそうもない

だけど僕は恋をした

すばらしい恋なんだ

だからしばらくは君と

逢わずに暮せるだろう


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで

君は僕の友達だ

この世は悲しいことだらけ

君なしではとても

生きて行けそうもない

だけど僕のあの娘はね

とってもやさしい人なんだ

だからしばらくは君と

逢わずに暮せるだろう


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで

就学旅行出発前.jpg

修学旅行に出発する私達を寂しげに笑いながら見送るヨシエさん
デジカメもない時代のバカチョンカメラで撮った、たった一枚の写真です。

右足の指の痛みもようやく和らぎ、手術しなくても大丈夫かな?
なんて考えることもありましたが、以前より歩けなくなっていることに気づきました。

ショッピング中に歩く事も困難になることも。。。

そんな状態では、これからの人生つまらないです。
少しでも可能性があれば手術を受けてみようと決意しました。

整形外科の先生より専門医を紹介して頂きました。

hospital 私の右足を診察して

指の骨は変形していませんよ

親指の腱を伸ばすことで指がまっすぐになります。

幸いな事に親指は自力で動いていて生きています。

腱を無理に引っ張ると良くないので、手首から移植しましょう
happy01

手術したから完全に治るというわけではありませんが、
今より良くなると考えたいです。

しばらく、ギブスで固定する事になり筋肉が衰えますが
リハビリ指導を受けて力をつけたいと思います。

15歳の時、療護園の主治医の先生の手術をしようという提案を振り切り
35年過ぎた今、先生が提案した指の手術を決めました。

もっと早く手術しておけばよかったのにねー

なんて言われましたが、仕方ないです。coldsweats01

言い訳になるようですが

オバアが亡くなって、一人寂しく宮古島で私の帰りを待つ
オジイの事を考えるといても立ってもいられなかったし
同級生と一緒に高校に通いたかった。

もうこれ以上、痛い思いをしたくないweep

というのが本音でしょうね。

遠回りをしましたが、今日これから入院して明日手術を受けます。

偶然にも手術の翌日がオジイの命日となっていて
手術の報告を受けた叔母と2人思わず

「オジイが守ってくれるはずね」

声をそろえて言ったのですhappy01

そう思うと、とても心強いです。

術後の経過を楽しみに頑張ってきます。scissors

美術の時間中庭で.jpg

久しぶりの投稿です。

タイトル「肝っ玉かあちゃんと呼ばれて」は、小児麻痺にかかってからの
50年間を振り返った日記として書いていますが、今回はチョッとだけ現在の事を書きます。


51歳になった今、子供達も成長してそれぞれ離れて行き、
自分自身の自由な時間が多くなりました。

まずは、沖釣り、これは女性では珍しいといわれていますが、
男の人とマグロ釣りや深海釣りに出かけ、腕前は船長が認める程です。

もう一つは家庭菜園

何気に始めたベランダ菜園でしたが、いろいろと野菜を育てているうちに
楽しくなっていきブログに成長記録を書いていたところ、
都心の真ん中で野菜を育てているということで、地元紙に紹介されました。

新聞を見て、ロハス生活を紹介する番組でテレビに紹介

今年からは番組CMで映像が毎日流れるようになって、
島では帰るたびに話題となり、嬉しいような恥ずかしいような。。。

そんな中、娘の嫁ぎ先の好意で200坪の畑を使わせていただくことになり
本格的に野菜作りにも挑戦してみようと、勉強中です。


そんな中、7月に入って右足が痛み出して歩行が困難になっていました。

原因はよく分かりませんが

筋肉の衰えと足の指の変形、体重の増加が原因かと。。。

もともと、小児麻痺で親指が変形していたのですが、若い頃は特に気にしていませんでした。

しかし、最近はどんな靴を履いても歩き辛く、必要以上に足の指全体に力を入れたことで
巻き爪になったり、親指の裏は万年タコが出来て歩くたびに痛い

そんな右足を鍛えようと、歩くことで力をつけようとしたのですが
変形した足の指で無理な体勢で歩いたことで、痛めてしまったようです。

ここ最近体重も増えてチョッと焦って、間違ったリハビリをしてしまいました。

ベッドから降りる時も足を下ろすたびに電流が走り、トイレに行くのも大変!crying

このままでは大変と病院へ行き整形外科の先生に相談

「歩けば筋力がつくわけじゃないよ」

「まずは、この変形した指から直して正しく筋力をつけましょう」

「今なら手術して指を整形すれば、これから少しは良くなるでしょう」


今更手術?coldsweats02

悩みました。

しかし、この2週間の足の痛みに、このまま歩けなくなってしまうのではと
不安を感じていましたので、思い切って手術を受けてみようと決心しました。

35年前、療護園での手術を拒否した結果なのでしょう。

まだ51歳です。

これからやりたいことも沢山あります。

趣味の釣りや家庭菜園、畑と楽しいことばかりです

又、手作り商品の販売もスタートさせるべく準備中です!

応援してくださっている人達も大勢います。

その期待を裏切らないように

早い時期に手術を受け、しっかりとリハビリ指導を受けたいと思います。

これからも肝っ玉かあちゃんの日記、頑張って更新しますね(^0^/


同級生や先輩達の交流が楽しくて、夜出歩く事が続いている私を心配してか

ある日、大阪で働いていた3番目の母の妹が突然帰ってきました。

叔母にあたるのですが、年も10歳しか変わらないことから

小さい頃から「ネーネー」と呼んでいました。

沖縄では、兄を「ニーニー」と呼び、姉を「ネーネー」と呼んでいます。

ネーネーとは、中学を卒業するまで一緒に暮していました。
小さい時から、姉妹のように喧嘩をしたり、いつも一緒に行動していました。

ネーネーは中学卒業後、集団就職で宮古島を離れ、
時折帰省するものの宮古島では働く場所も少ないため
東京→大阪と働いていましたが、突然の帰省です。

まだ結婚していなかったので動きが取れやすいネーネーを私の見張り役として
姉妹達に頼まれて、帰ることになったのでしょう。

案の定、ネーネーは口うるさく私の行動をチェックしていました。

そして、部落の経営する購買組合の本店で店員として働くことになったのです。

街までバスで40分以上もかかる小さな部落では、この購買店はとても貴重な店です。

生活雑貨から食料品を揃えているので、毎日の買い物は東と西にある2店舗で
部落の人達は買い物をしていました。

街で買うより少し割高ですが、各家庭には通い帳なるものがあり
毎日買い物をした商品名や金額を店のレジで記入してもらいます。

そして、年末に買い物金額のトータルから?%が、各家庭に換金されるのです。

今でも、通い帳のシステムは残っていて、狩俣購買組合は小さな部落の割には
結構黒字運営をしているということで、地元紙でも紹介されることがあります。

購買店は朝7時から夜9時までの営業で、年中無休の状態です。

盆・正月や行事の時は、パニックするくらい大忙しです。

ネーネーが購買店で働き始めてからは、私の仕事が更に増えました。

学校から帰ってくると夕食の支度をすませると、ネーネーと交代で購買店を手伝います。

そして、夕食をすませ戻って来たネーネーとレジを閉めて、その日の売り上げを専務のいる
支店へ届けて家に帰るという生活が始まったのです。

しかし、ネーネーも20代の若さですから仕事が終わってすぐに家に帰るわけがありません。

私を叱りつけながら、分自身も同級生と遊びに行くこともシバシバありました。

とてもか細くて、体力のないネーネーは貧血気味で時々体調を崩します。

その度に学校が休みの日は、朝7時から夜9時までネーネーの代わりに店を開けることもありました。

小さな部落の店ですが、やる事は沢山あります。

7時前には店の前で待っている人達もいます。

朝食の準備や仕事に行く前に買い物に来る人達で
朝からバタバタと追い立てられながら店を開けます。

そして在庫確認しながら、品物を並べてラベル貼り、

時には、アルコールや米の配達もします。

当時は米は計り売りだったので憶えるまでチョッと大変でした。

大きな注文が入ると、配達用の大きな自転車にビールケースを乗せて
配達した事もありました。

体の小さな私には足が届くわけもないですが、
なんとか、自転車に飛び乗るようにして運転していたと思います。

今ではどうやって運転していたのか思い出せませんが。。。。

多分乗れないでしょうね!

忙しい日々を過ごしながらも購買店の手伝いは結構楽しんでいました。

オジィやオバァが方言で話しかけてきて答えられるようになり

取引業者の方と仲良くなり、配達の途中に学校帰りの私を見かけると、
部落まで乗せてくれることもあり、お陰でバス代も節約することができました。

私にとって貴重な体験だったと思います。

購買店前で。。。

購買店.jpg






友人や先生の協力もあって、2年に無事進級した私は今までと違い
高校生活が楽しくなってきました。

2年のクラスがとても明るく、笑いの耐えない活気のあるクラスだったのです。

又、私を心配してくれた友人とも同じクラスになることが出来ました。

彼女を通じて、友達も増え行動範囲が広がってきたのです。

音楽同好会も2年目になると先輩達との距離も近くなり、
同好会としての活動も広がってきました。

丁度、フォークソングブームで「かぐや姫、イルカ、吉田拓郎、森山良子、チェリッシュ」etc。。。
多くのヒット曲が流れていた時代です。note

ギターの練習にも力が入りました。
少しでも上手になって先輩達に近づきたい、同じレベルで会話がしたいなどと思い
毎日、夕食の片づけを済ませるとギターを弾きながら大声で歌っていました。

田舎ですから、誰にも文句を言われることもありません。
それより、家を訪ねてくる近所の叔父さん・叔母さん達から

いつも道を通るたびに、ヒトミの元気な歌を聴いているよ?

いいね? 上手さ?
happy01

ますます調子にのってきました。

そして、夜になると同級生や先輩達に誘われて出かけることもしばしば。。。

今まで話をした事もなかった男子とも親しくなることができ、
毎日が楽しくて、学校を辞めなくて良かったと思いました。

でも、私のそうした心境を知らないオジイには、
私が夜出歩く事で心配をかけていたのです。

毎日の家事をこなしながら学校へ行く私に対して、
何も言わないでだまって見守ってくれているのですが、
私が夜、友達と出かける事で心配をかけていたのです。

当然の事ですね。

夜出歩くのはいけないことだと分かっているのですが、
ただ、友達・先輩とたわいのない話をして過ごすだけ。。。

それが唯一の楽しみだったので、誘いがあると出て行っていました。
外に出て誰かと話をしたい、誰かと一緒にいたい。。。

療護園を出てオジイと生活するようになってから、
遠く離れて過ごす母に対する不満が芽生えて来て、pout
その事をぶつける場所がないという苛立ちもあったからです。impact

オジイと生活して辛かったのは

70歳をすぎたオジイが若い人達と大工として働き、休みの日は畑仕事。
毎日働いても収入はわずかでした。

年金とオジイの収入だけでの生活は楽ではありません。
同居している叔父は、漁師を始めたばかりで殆ど収入がなく
生活費を請求してもわずかなお金しかもらえませんでした。

時々、自分の貯金から食費にまわすこともありましたが、
母から学費以外にオジイに協力がないことが最大の不満でした。

なんの贅沢もせず、黙々と働き、毎日の晩酌で泡盛を楽しむだけのオジイから
生活費をもらうことが辛くなってきたのと、叔父や叔母・母に対して、
言葉に出し切れない不満が大きく膨らんできたのです。

そんな苛立ちから時々、大声で叔父と喧嘩をすることもありました。

そんな中、オジイが私の夜遊びを心配して母に電話をしたのでしょう。

母から私に電話がありました。

当然、夜遊びの事で叱られましたが、私には聞く耳はありませんでした。

別に、何も悪いことしてないんだからほっといて!
家の事はチャンとしているから、心配する必要ないよ!
angry

そういって電話を切った後、オジイに

オジイ! 心配かけてゴメンネ!
でも、絶対に悪い遊びはしていないから信じて!
夜出かけるのは悪いのかもしれないけど、今はやめられない!
理由は言えないけど、もう少し時間が欲しい。。。。
think

その言葉にオジイはだまっていました。

道路標識.jpgのサムネール画像

担任の先生と一晩話しをしたせいかスッキリとした私は、
気持ちを切り替えて再度頑張ってみようと思いました。rock

そんな中、同級生のKさんが

あんたさー 最近暗いけど何か悩んでいることがあるんじゃない?

ちょっと気になったんだけど。。。

自分に何でも言ってー

幼稚園から一緒で、何でもできる頭のいいKさんは私の目標の人でした。

高校も同じ高校に入学して、クラスは違いましたが、すぐ隣のクラスだったのと
音楽同好会としての活動も一緒にしていました。

中学時代を療護園で過ごした私は部落の同級生と少し距離を感じてしまい
悩みを相談できる友人はいないと思っていたのです。

でも、距離を置いていたのは自分自身だったのかもしれません。

Kさんが私のチョッとした変化に気がついてくれたことが、とても嬉しく
成績の事や家でのストレス等をうちあけました。

するとKさんは

そんなことで悩むなー 勉強が分からなかったら一緒に勉強しようよー
一人でやるより、頭に入ることもあるし、教えてあげるさー!


理数科の得意なKさん、ポイントを絞って分かりやすく教えてくれます。

それからは、テスト前になるとKさんの家で一緒に勉強をするようになり

時々、私を誘って一緒に遊びに出たりして、同級生や先輩・後輩との交流の場に
誘ってもらうようになりました。

同級生や先輩達といろんな話を聞いたり、話をしたりすることで、

なんだか小さな事で悩んでいたような気がしました。

そして、毎日が楽しく感じるようになりはじめました。

週末の夜は、自宅前の先輩の家で卓球大会。。

作業場に卓球台を置いて、夜になると先輩達が集まって
卓球大会らしき事をして遊んでいたのです。night

最初は見学だけしていたのですが、唯一私ができるスポーツが卓球scissors

先輩達に進められて仲間に入れてもらうことになりました。

実力は中くらい?coldsweats01

何もない田舎の若者の遊びって、こんなものでしょう(笑)

ボーリング場なんて街まで行かないとないし、バスは一時間に一本bus
ましてや夜は最終のバスが8時です。

タクシーなんて走っていませんから、街のタクシー会社に電話して来てもらわないといけません。car

街まで車で20分。。。タクシー代もバカになりません。coldsweats02

そこで、部落内の若者達は友人宅で集まったり、
夏場は海岸で集まったりして交流していました。

いわゆる、夜遊びがここからスタートしました。night




高校生活を続けることに自信をなくした私は、担任の先生に相談する事にしました。

担任の先生は、国語の教科を受け持つ教師になったばかりの若い女性の先生でした。

先生!私学校を辞めようと思っているんですが。。。

先生はビックリして

「ヒトミさん! チョッと待って 先生とゆっくり話をしましょう!」

「先生の家に来て、一晩ゆっくり話をしましょうね」

「オジイさんには先生から連絡するから心配しないで」

そうして、先生の家に一晩泊まる事になることにしました

自分の置かれている環境や思い、不安等色々な事を先生に
聞いてもらいました。

そして、先生から

「ヒトミさん、結論を出すのはもう少し待ちましょう」

「3学期頑張ってみましょうよ!」

「それでもダメだったら、もう一度考えましょう」

「せっかく頑張って入った高校なんだから。。。」

「分からない事があれば、先生に聞いてね!」

親身になって私の事を考えてくれる先生の言葉に感動しました。

そして、先生の言うとおり
3学期頑張ってみようと思いました。

誰にも打ち明けられなかった思いを話せる事ができたことで
気持ちが少し楽になった気がしました。





主婦業もすっかり定着して高校生活も慣れてきました。

しかし、私には大きな悩みがありました。

受験当初は、大学進学を考えて普通科を選択したのですが
現実は、高校の授業料も生活費もままならない状態。。。

母やオジイにこれ以上負担をかけられません。
自然と進学への夢が消え去っていました。

そればかりか、療護園で少人数での授業から
40人という大人数の中で淡々と流れていく授業についていけなくなっていました。

大好きだった英語もガッカリするほど、つまらない授業となり
数学は、ただ黒板を眺めているだけの状態。。。

生物と古典を選考していましたが、理数科系は全くダメでした。

私は何のために勉強しているんだろう。。。。

進学を諦めてからは、ただ目的もなく授業を受けているのが
とても嫌になり、学校を辞める事を考え始めました。

そんな状態ですから、成績も恥ずかしいほどの点数で
試験のたびに追試を受ける状態。。。。

こんな状態では、進級も難しいでしょう
留年するくらいなら思い切って辞めてしまえ!

そう考えた私は、1年の3学期、担任の先生に
相談する事にしました。

宮古島の夏は早いです。

寒さのピークは2月。。。

5月には衣替えで、制服も変わります。

夏の制服は軽装でワイシャツに棒タイ
夏の制服スカートとワイシャツを揃えなくはいけません。

しかし、宮古島の夏の暑さでは、1着2着では追いつきません。
ましてや、年頃の女の子ですから汗臭いシャツを着るなんて
出来ません。。。

でも、小遣いもなく、わずかな奨学金と母からの仕送りで
生活費を切り詰めていた私は夏の制服を買う余裕等ありません。

そこで、家庭科の時間を利用して、ワイシャツを縫うことにしました。
洋裁の経験等ありませんので、しっかりと先生に教わって完成!

そして、友達に教えてもらいスカートも手作りで縫うことにしました。

なぜ?先生に教わらなかったというと。。。

学校の規則で、スカートのひだの数と膝丈が決まっていたので
チョッと規則違反ではありましたが、ひだの数を増やして膝丈を
長くして作りたかったからです。

今の学生はミニですが、私の時代はロング丈が流行っていました。

洋裁もコツを憶えると結構楽しく、オバアが使っていた足踏みミシンで
普段着のスカート等を縫って、お洒落を楽しむようになりました。

参考書なんて高いものは買うことができないので、学校の図書室で
勉強したり、友達の家で勉強したりと節約、節約でした

なんとか学校にもなれ、学校での唯一の楽しみは

「音楽同好会」

人数が少人数のため、部活動としてなりたっていないため
部費もなく、同好会としての活動でした。

当時は、フォークソングの最盛期!

かぐや姫、チェリッシュ、吉田拓郎、森山良子、イルカetc。。。

多くのアーティストが活躍していた時代でしたので
ギターを弾きながら歌を歌うことは憧れでした。

先輩達のギターを聞きながら、必死にコードを覚えて練習したものです。

中学時代にクラッシックギターを担任の先生に教えてもらっていたので
クラッシックギターは持っていたのですが、フォークギターがない。。。

どうしてもフォークギターが欲しくてたまりません。

でも、ギターを買う余裕等ありません。

夏休みを利用して、本島へ行き
同級生のお兄さんにお願いしてアルバイトをさせてもらいました。

そして、アルバイトのお金とコツコツとためた貯金で念願の
フォークギターを購入することができました。

嬉しくて、嬉しくて、毎日夜になるとギターの練習をするのが日課となり
台所仕事をしながら、洗濯をしながら、どこにいても
大きな声で歌を歌っていました。

テレビもNHKしか映らず、ラジオも電波が悪く時折台湾語の放送が
混ざって聞こえてくるほど、何の娯楽もない田舎です。
歌を歌っている時が一番楽しかったかもしれません。

そんな夏のお盆の時でした。

お盆には叔母達も帰省して久しぶりに賑やかになります。

お盆の3日間、小学校のグランドにやぐらが建てられ
盆踊り、のど自慢大会が開催されます。

私もギター片手に、のど自慢に参加してみました。

森山良子の「風が運ぶもの」♪

女の子がギターを持って歌を歌うことが珍しかったのか
見事優勝!

楽しい思い出の一つです。













プロフィール

  • プロフィール画像
  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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