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2009年6月アーカイブ

梅雨明けした沖縄はいよいよ夏本番です。

青い空、青い海、ぎらぎら太陽がまぶしいsun

そして、台風の季節でもあります。typhoon

私が小学校4年の時ですが、最大級の台風がありました。typhoon

今まで経験した台風の中で忘れる事のできない大型台風です。

測候所のレーダーが飛ばされたということで、観測された最大風速は
80mだったそうです。wave

当時は、木造建て瓦屋根の家が多く被害もかなりのものでした。

私の住む家は母屋は瓦葺の木造でしたが、後から継ぎ足した台所が
コンクリート造りでしたので、いよいよ風が強くなった時は台所の方へ
非難しました。

台風の目に入った時は、不気味な程に真っ赤な空が見えて物音一つ
聞こえないくらい、あたりが静かになります。

その間に大急ぎで家の窓・入口を内側と外側を板で打ち付けて、
風で飛ばされないようにありとあらゆる準備をしていきます。

そして、台風の目が過ぎた時が地獄のような風雨がなり始めました。eye

気圧のせいでしょうか。。。。

耳がキ?ンと痛くなり、話し声も聞こえませんear
怖くなってパイプベッドの下にもぐりこみましたが、

なんと、ベッドが浮き上がるのです。shock
必死でベッドの足を捕まえて、台風が通りすぎるのを待ちました。

少し風向きが変わったところで、祖父がヤギ小屋の様子を見に行くと
ヤギが失神していたということで、台所に運んで泡盛を吹きかけていました。

そんな恐ろしい台風が過ぎ去って外に出てみると。。。

ガジュマルの木は根元から倒れ、母屋の屋根瓦はすべて吹き飛び
家の中は水浸しです。

頑丈に打ち付けていた戸は全部剥ぎ取られていました。

そして、部落内を歩いて見ると。。。。

ペシャンコに潰れた家がありました。

可愛そうに、その家のおじいさんが下敷きになってしまっていました。

部落から海を渡った、池間島にはカツオ工場がありましたが
工場も潰れて、同級生のお父さんが犠牲になってしまいました。

毎年、やってくる台風。。。typhoon

台風銀座と呼ばれている先島諸島ですが、大きな被害が無いことを
祈りたいです。

写真は、宮古島西辺名崎の風車です。
数年前に同じ規模の台風に見舞われて風車の羽が
もぎ取られました。(凄い威力です)

羽の取れた風車.jpg





宮古島?.jpg
今日は慰霊の日です。

沖縄戦から64年経過今日は
戦争で亡くなられた方達の冥福を祈ります。

私が中学校2年15歳の5月15日に沖縄は日本に返還されました。

物心ついた頃から、ドル紙幣でしたので日本円になった時は
かなり戸惑いました。

小学校時代は宮古島は色々な面で遅れていたのかもしれませんが、
沖縄本島から比べるとかなり貧しくて、電化製品がある家庭は
極わずかの家しかありませんでした。

冷蔵庫もなく部落の共同売店に大好物のバターを入れてもらった記憶があります。

時々学校に米兵が尋ねてきて、脱脂粉乳の配給や
チョコレート・ガム等をもらったりしていました。paper

いわゆる、ギブミーチョコですかcoldsweats01

古いですね?coldsweats01

又、学校の運動場に椅子を並べて、子供達を座らせて歯の治療をしたり、
予防接種やしらみ駆除等をしてもらっていました。weep

年に一度、全校生徒で日本の旗を持って、祖国復帰を願う行進が行われました。

沖縄を返せ?♪note 

と歌を唄いながら部落内を行進するのです。

私は行進には足がついていけないので、学校の周辺だけ行進についていきました。foot

昨年、50歳の同窓会を行った時に同級生で唄ってみました。notes

ほぼ、40年前の出来事ですが覚えているもんですね。

平和な沖縄になったでしょうか。。。




1ヶ月もの間ギブスで固定された右足の筋肉がすっかりなくなってしまった私は、
歩くこともままならない状態になってしまいました。

まずは、通学が困りました。

学校への道のりは、わずか300m程の距離ですが、
カバンを持って歩くことが出来ません。weep

2?3日は、祖母が背負って送り迎えしていたのですが、4年生の私がおんぶされて
学校の門をくぐると、低学年の生徒が不思議そうに見て笑います。think

私も恥ずかしいので祖母の送り迎えを断って自分の力で通う事にしました。

壁や塀につかまって、ゆっくりと歩く? 
片足だけの力で前に一歩一歩、時には片足ケンケンで。。。foot

カバンが重くなると、前の方に放り投げて進むという状況でしたが、
時々友達がカバンを家まで届けてくれました。

そんな中、隣部落から通って来ている同級生が見かねて、
自転車で送ってくれるようになりました。
毎日、数人の友達が交代で送ってくれて、祖母もとても喜んでいました。happy02

友達が帰る時は、庭にあるバナナやバンシロウ(グワバ)の
実をお土産に持たせていました。

そこで、私は考えました。。。。

自分で運転して自転車で通えばいいんだ?とnote

でも、自転車は自分で運転した事はありません。
もちろん我が家にも自転車はありません。

オバー 自転車買って? そしたら自転車で学校に行くよ!

ダメだよ! これ以上怪我して、これ以上足が動かなくなったらどうする!angry

当然祖母に許可がもらえませんでした。

諦め切れません。

そこで、私が取った行動は。。。。

内緒で友達の自転車を借りて、自転車に乗る練習をすることにしました。

自転車に乗れるようになれば、祖母も自転車を買ってくれるのではないかと
思ったからです。

友達に支えてもらい、何度も転び、壁に激突しながらも練習した結果
ようやく乗れるようになったのです。

そして。。。。

オバー 自転車に乗れるようになったから、自転車買って?bleah

全く? あんたは?
gawk

祖母もそんなウーマクな私にあきれ返っていました。

話を聞きつけた叔父(母の弟)が、補助輪付の自転車をプレゼントしてくれました。

そして、学校の許可をもらって自転車通学を始めることが出来ました。

自転車に乗ると、世界が広がり部落の端から端へと移動したり、畑仕事の手伝いや
家で飼っているヤギや牛の餌、草刈のお手伝いも出来るようになり毎日野生児のように
飛び回っていました。horse

自転車をこいで畑道や坂道をこいでいるうちにリハビリになっていたのでしょう。

右足も少しずつ力をつけて、支えなしでも歩けるようになってきました。


小学校時代は、かなりオテンバ(ウーマクー)な私は、
かけっこ以外の遊びは全て参加しました。scissors

友達が私が参加しやすいようにルールを変えてくれたお陰かもしれませんが
ゴム飛びや縄跳び、鬼ごっこ、石蹴り等毎日sun日が暮れるまで楽しく遊んでいました。

学校の休み時間は、天気の良い日は外でボール遊びや鬼ごっこが定番でした。

そんな小学校4年のお昼休み時間。。。

いつものように午後の授業が始まる前に、外で同級生とジャンケンゲームをしていました。

ジャンケンで勝った人が大股で飛びながらゴールへ向かって行く遊びです。run

そして私が飛んだ瞬間、悪い方の右足がガクンと崩れ地面に膝をついてしまいました

その瞬間、ピキッという音と激しい痛みがはしりました。annoy

遊んでいて転ぶことは日常茶飯事でしたが、その時の痛みは別でした。

膝をついた場所には大きな石が埋まっていたのです。bomb

立ち上がれなくなって泣き出した私を同級生達は医務室へ負ぶって行き
手当てをしてもらいましたが、痛みが激しさを伴ってきました。crying

先生も私の痛みが普通ではないと思い、急ぎ祖父へ連絡迎えに来てもらう事に。。。

祖父が雨の中迎えに来た頃は、私の右膝は腫上がり
夕方には熱と共に激しい嘔吐を繰り返していました。

宮古島の小さな部落です。

タクシーはtelephone電話で町の方から来てもらわないといけません。car

その間も激しい痛みと嘔吐が続き、私はただ泣きじゃくっていました。weep

やっと、夜8時過ぎ町の救急病院へ到着、hospitalレントゲンを撮ってもらったところ
右足の膝上にヒビが入っている事が分かりました。

硬い石の上に膝をついてしまった衝撃でヒビが入ってしまったのです。

専門の先生ではなかったのですが、とりあえず足を固定するために
ギブスを巻く処置が行われました。

しかし、このギブスで私の麻痺した足が最悪な状態になるなんて
祖父母も私も思っていませんでした。

右足の付け根から全体にギブスを巻かれた私は、歩くこともできなくて
一ヶ月間自宅療養をする事になったのです。

当時は、wheelchair車椅子も杖もなく、学校のトイレは和式、toilet教室から遠く離れた
運動場の先にあったので、通学が無理だったのです。

もちろん自宅も和式トイレで、いわゆるボットン便所。。。

1ヶ月間の自宅療養は、退屈な毎日でした。despair
勉強も遅れをとってしまい、時々先生や友人がノートを届けてくれましたが
一人自宅での勉強は、チンプンカンプンですgawk

一ヶ月後、ギブスが取れた瞬間shock
私も祖母もギブスの中から現れた右足を見て唖然としました。

ギブスの中から現れたのは、黒く枯れ枝のようにやせ細った右足だったからです。foot

麻痺している足にギブスを巻きつけたまま、一ヶ月も放置していたせいで、
筋肉がなくなってしまっていました。

右足の力は全くなくなってしまっていて、立ち上がっても左足で支えるのがやっと
歩く事が出来ませんでした。

そんな私を祖母はweep涙しながら背負い病院を後にしました。

後で聞いた話ですが、麻痺した足にヒビが入ったからといって1ヶ月もギブスを巻くのは
間違った治療だったということです。

当然にして、麻痺した足は筋肉が衰えて動かなくなってしまう。。。

離島の小さな病院、医療が遅れていたというだけでしょうか?

担当医の知識のなさ?

ウーマクーが過ぎた事を反省しても、病院の選択を間違えた事を悔やんでも
もう右足は元には戻りません。

それまで両足の太さは殆ど同じで軽いビッコをひきながらも、
わずかに走る事が出来ていたのが、大根とゴボウのように太さも変ってしまい
歩く事もままならなくなってしまったのです。down

辛い日々がスタートしました。






土曜日の夕方仕事を終え、那覇から宮古島へ飛んだairplane

空港へは同級生が迎えに来てくれました。

日曜日に海人祭があるので、同級生が参加する船の漕ぎ手として
参加しないかと誘われて数十年ぶりに海人祭に参加します。

小学校時代は、大人の船漕ぎ競争を砂浜で眺めるだけでした。

実際に船を漕いで見ると12人が掛け声をかけながら、ゴールを目指して
ただひたすらに漕いでいく。。。。

一着でゴールした時の爽快さ、心地よい疲れと皆の笑顔は最高でした

同級生全員が私の足の障害の事は全く気にしていないので。。。。。

来年も来いよ?wink 一番上手だったよ?scissors

さすがに釣りで鍛えた太い腕だけあるね?
bleah

ほめているのか?gawk

打ち上げでは、しっかりとおとうり酒も回ってきて、

私もお祝いのおとうりを。。。。

2日間の滞在でしたが、とても楽しい2日間でした。

たまには田舎の行事を楽しみながら帰省しようと思います。

P5310050.JPG

プロフィール

  • プロフィール画像
  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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