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2009年8月アーカイブ

中学初めての夏休み、いつものように東京の両親の元へ行くことになりました。

そして、初めて船での一人旅です。ship

当時は、飛行機なんて贅沢な乗り物です。airplane

宮古島から沖縄本島へ行くにも船でした。ship

宮古からの本島までの時間は夕方5時?6時に出航して
朝方には着いていたので長くは感じませんでした。

今では、飛行機で45分です。

そして、那覇から東京までの航路は2泊3日。。。

途中、奄美大島? だったと思いますが、
パスポートのチェックや荷物の検閲がありました。

叔母達に見送られて一人、東京へと出航です。ship

寂しさや不安は全くなく、自由に船の中を探索しながら
船上で友達もでき、2泊3日の船旅も楽しく過ごす事が出来ました。

しかし、晴海埠頭に到着すると迎えに来ているはずの母の姿が見えない。。。。coldsweats02

乗船客もすべて下船して、船員の方も心配して一緒に迎えを待ってくれました。

港の待合室で一人どのくらい待ったでしょうかthink

ようやく母が迎えにきました。

方向音痴の母は、晴海埠頭へ行くのに迷ったようです。

電車を乗り継ぎ、ようやく板橋の家に到着しました。

両親は、中古の一軒家を購入、小さな工場を経営していました。

カメラ・双眼鏡等の部品下請け製作所です。

忙しく働く両親の手伝いをしながら、6つ下の妹と夏休みを過ごしていたある日

宮古の祖母から連絡が。。。

「至急帰れ!」 

夏休み途中で、急ぎ東京を後に沖縄に戻ることになりました。

小児麻痺にかかった右足の治療を申請していた、
沖縄整肢療護園のベッドが空いて急遽入園が決まったからです。

手術をするにもある程度、骨が安定してからがいいということで
長年待ち続けていた右足の治療がスタートするのです。scissors

不安と期待を胸に帰りの船の中は、どう過ごしたか記憶にありません。

そして慌しく、転校の手続きと入園の準備が始まりました。



小学校を卒業して、中学生となりました。wink

憧れの中学の制服を着て、中学生活に胸膨らませていました。

。。。とは言っても

小中学校同じ敷地内、校舎が違うだけでした。

狩俣小学校卒業記念 1971年3月.jpg

でも、制服姿の先輩達を見ると羨ましくもあり
同じ敷地内でも違う空気に感じていました。

中学生になると科目ごとに先生が変るので、とても新鮮に感じ

英語の授業は楽しくて単語を覚えるのが嬉しかった。happy01

でも苦手な算数が数学となり頭の中はチンプンカンプン!bearing

クラブ活動等、毎日が楽しくてたまりませんでしたlovely

ただ一つ残念な事は、スポーツが大好きだった私は

運動部の選択がなかった事でした。

当時はバレーボールが好きで、毎日放課後バレー部の練習を
見学していました。

たまに、パスの相手やストレッチの相手をしたり、ボール拾い等
バレー部員かと思うほど、熱心に練習に参加していました。

家に帰っても、一人ボールで壁を相手にパスの練習をしたり
休み時間も友達とバレーをしたりと、とにかく上手になりたかった。

そんな私を見て、顧問の先生が

バレー部に入るか?

と声をかけてくれました。

でも、私はすかさず断りました。paper

先生、私はバレーが大好きです。

でも、私は皆と同じ練習が出来ません。

皆、一生懸命走りこみをしたり辛い練習をしています。
一人だけ特別な人がいたら皆に迷惑です。

だから、バレー部には入りません。


でも先生が迷惑でなければ、練習に参加させてください。

皆の邪魔にならないようにしますから。。

顧問の先生もバレー部のメンバーもそんな私の気持ちを気持ちよく
迎え入れてくれました。

でも、いつまでも見学だけの隠れ部員ではいけません。
自分のできることをやろうと思い、歌うことが好きだったので
合唱部へ入る事にしました。note

物心ついた時から、オジィから学校唱歌を教わっていたことと
目立ちたがりの性格もあって、人前で歌うことが大好きでしたbleah

こうして、中学校生活も順調にスタートしました。









祖父母と暮らした小学校時代は、まだアメリカ占領下の時代ですから
けっして裕福ではありませんでした。

電化製品なんてものは、殆どありませんでした。
洗濯は手洗い、ご飯を炊くのも石油コンロです。

お風呂なんてありません。

夏場は水風呂、冬はやかんにお湯を沸かして、たらいの中に入れ
わずかなお湯で温まっていました。

水道もタンクにためた雨水をろ過した水を使っていました。

電気もはだか電球で、度々停電するのでランプでの生活が多かったような
気がします。

一番嫌だったのは、トイレ。。。
豚小屋の側で、ボットン便所です。

臭いし、怖いし。。。

ようやく、コンクリートのトイレを別に作ったのですが、
これも母屋から離れた庭にあるので、雨の日は大変でした。

夜は真っ暗闇で、懐中電灯を持っていかないと見えないので
時々、裏庭でこっそりすませたものです(笑)

野菜は庭の小さな畑で、オバァが作っていたので野菜には
困りませんでした。

おやつといえば、黒糖かサツマイモ
配給でもらった脱脂粉乳に砂糖を混ぜた粉を食べていました。

料理上手なオバァが時々、サツマイモのかりんとうを作ってくれたり
寒天やみたらし団子などを作ってくれました。

そして、本土へ集団就職で頑張っている、叔父や叔母達のために
かりんとうやアオサ、ティナザ(貝)、油味噌を袋いっぱい作って、送っていました。

その度にオバァと海へアオサや貝を採りに出かけたものです。
採った貝は、大きな鍋に浜で海水で煮て殻から出します。

冬場は寒くて、とても辛い作業でした。bearing

すると、オバァは

あなたのお母さんにも送るんだから、頑張りなさいrock
お母さんは、あなたが頑張って送ってくれたものだから喜ぶさ?wink

オバァは私にいろんな体験をさせてくれました。

厳しくもあり、優しくもあり オバァから習ったものは沢山あります。

オバァは、とても忙しい人で、大阪、東京、那覇と結婚式や娘達の
出産の世話に出かけたりと飛び回っていました。

そのせいか、同じ部落のオバァ達に比べるとハイカラなオバァでした。

部落で洋服を着たのもオバァが最初だそうです。

オバァが留守の間は、オジィと二人で留守番です。

大工をしているオジィは朝早く出かけ、夕方にしか戻りませんので
私が夕食を作ることもありました。

どんなに失敗しても黙って全部食べてくれました。
食べ終わった後に、「今日のオカズは辛かったね」と一言だけ言うのです。

小学校3?4年生から台所に立たされていたので、チャンプルー料理は
見よう見まねで作っていました。

一度、友達と野菜炒めを作っていたところ、油が多かったのかフライパンに
火がついてビックリしたことがあります。

焦った私が、友達に水? と叫んだ所
友達はビックリしてコップに水を持って来るというハプニングがありました。

何もなかったけど、あの頃がとても楽しかったように思います。








父の存在を知ってからは私の心は複雑な心境でした。

父の事を聞いても何も教えてもらえませんでした。

そんな中、夏休みに東京へ

今まで、「パパ」 「ママ」 と呼んでいたのに
なぜだか他人のような気がして呼ぶ事ができません。

何か用事があっても。。。。

え? とか。。。。あの? とか。。。。

自分自身どうしたらいいのか分からなくなっていました。

東京の父と母の間には、男の子と女の子がいました。

私の義理の兄弟です。

妹は6歳下で、弟は13歳も離れています。

東京育ちの妹はとても活発で、負けず嫌いな強い性格です。

お姉ちゃん、お姉ちゃんと慕って、なんでも私の真似をして
私と同じものを欲しがりました。

でも、一緒に住んでいないせいか兄弟という実感はなく
兄弟喧嘩なんてしたこともありません。

一度だけ私に向かって、「ちょっと あんた!」と言われた時は
「誰に向かって言ってんのよ! お姉ちゃんでしょ!」と妹の頬を打ったことがあります。

そして、両親を一人占めしている妹が羨ましく思えることもありました。

一度だけ小学校の運動会の時に母が妹と東京から帰省したことがありました。

その時は嬉しくて、初めての母の手作りのお弁当に感動した事は忘れません。

だからといって、東京へ行き両親と一緒に住む事は考えた事もありませんでした。

その時の私は、オジィとオバァとの生活が、とても大切でした。

なんだかんだと色々あった小学校時代も無事卒業する事ができましたが、
中学生になった私に新たな苦難が待ち受けていました。









宮古島での生活は、毎日が楽しかったhappy02

本家であるオジィの家には行事の度に、いろんな親戚が訪ねてきます。

特に、お盆や正月、彼岸等。。。notes

その他にも昔は結婚式は自宅で祝っていたので、台所の広さと大きな釜があるということで
部落の行事の度に沢山の人が集まっていました。

とにかく行事が多かったような気がします。

そんなある日、お盆に集まった親戚のおじさんの一人が私に話しかけた。

shadowあんたの父ちゃんは元気かね?

virgoなんで? 元気だよ 東京にいるさ?

と答えると

shadow違うさ? 本当の父ちゃんのことさ?

virgo???? 本当の父ちゃんって! 東京のパパは本当の父ちゃんじゃないの?

shadowあれ! 知らんかったの? 

叔父さんは気まずそうに口をつぐんでしまいました。
私は何がなんだか分かりません。

両親は東京に住んでいて、私が6歳の時に妹が生まれました。
夏休みの度に東京に行き両親と過ごして、私は両親の事を「パパ」「ママ」と呼んでいました。

今まで優しくて、何でも私のわがままを聞いてくれた「パパ」が、父親じゃない。。。。

10歳の私には理解できませんでした。

翌日、祖母に思い切って聞いてみることに。。。

virgoばぁ? 東京のパパは、私のお父さんじゃないの?
本当のお父さんじゃないの?
私のお父さんはどこにいるの?


祖母はビックリして私に

coldsweats02誰に聞いたの?

virgo昨日、○○おじさんが言っていたよ。

祖母は、しばらく黙りこんだ後。。。

thinkそうだよ! あんたのお父さんは別にいるよ。

でも、あんたが生まれてすぐに、お父さんとお母さんは離婚したさ?
だから、あんたのお父さんが何処にいるか分からないよ!


酒飲みでどうしようもない人だったからね。。。。

大人になって母に父の事を聞くと酒癖が悪く、母に暴力をふるい
生活費も飲んでしまう人だったようです。

事実を知らされた私は、その日から両親の事を「パパ」「ママ」と呼ぶことができなくなりました。


プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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